ひとりごと
2023年


FaceBook 「We love Sony SONY 大好き グループ」に投稿した記事です。

ソニー勤務時代の発明考案実施表彰
 ソニーを卒業し25年、身辺整理をしていたら「賞状 発明考案実施特別表彰」(7通)、「賞(メダル 50mmΦ×3㎜) 発明考案実施特別表彰」(5個)が出てきました。白黒トランジスタテレビ、トリニトロンカラーテレビの開発・設計に従事していた時のものが主体でした。
 写真のメダルは、トリニトロンカラーテレビ1号機 KV-1310に採用された「カラー陰極線管のコンバージェンス装置」に対するものです。
 トリニトロンカラーテレビは、多くメンバーが総力を結集したプロジェクトで、私にとって生涯忘れることのできない経験でした。
 最近、メダルに純銀の刻印があるのに気づきました!

トリニトロンんカラーテレビ1号機 KV-1310
 ラジオ技術(1969年5月号)に投稿・掲載された、トリニトロンカラーテレビ1号機KV-1310の解説記事が見つかりました。「ソニートリニトロンカラーテレビKV-1310の特長
 前記表彰メダルに関連する説明は、最後のページにあります。メダル表

 トリニトロンブラウン管を搭載したカラーテレビ受像機の設計チーム(第一開発部四課)は1967年11月に発足しました。
 1968年4月15日 ソニービルで行われたトリニトロンカラーテレビ発表会には、10台の試作機を展示しました。
 5月15日、社命を受け、アメリカ向けモデルの試作機(2台)を携え、大西課長と羽田空港を出発、5都市を訪問し、フィールドテスト、現地販社内覧会で展示・紹介、「ニューヨークでトリニトロンカラーテレビ発表」を行い6月14日帰国しました。
 トリニトロンプロジェクトに関連した全ての人々の努力が実り、井深さんの公言通り、10月にトリニトロンカラーテレビKV1310が発売されました。
 私事ですが、10月3日私(29才)は現在の妻と結婚し新婚旅行中でした!

トリニトロンカラーテレビ:最初の重大事故
今でも明確に記憶に残っている思い出話です。
 トリニトロンカラーテレビ1号機KV-1310は、55年前の10月発売されました。発売開始後暫くして、思いも
及ばなかった事故が発生しました。
原形を留めない程焼け、部分的にバラバラ状態のKV-1310が職場に運ばれてきました。
大西課長と私が原因究明に当たり、床に敷いた新聞紙の上に現物をある程度分類し並べ、二人横並びで、原因究明に繋がる残骸を探しました。
長期戦を覚悟しましたが、幸い短時間で樹脂製アンテナ端子ケースの金属端子が高温で溶けた痕跡を発見、発火点は近くにある!金属端子に半田付けされていた絶縁用の円筒型セラミックコンデンサは痕跡すら残っていない。
コンデンサ(規格上の耐電圧十分余裕)が絶縁破壊したらどうなるか?テレビセット実装状態で実験:コンデンサに瞬時的な高電圧をかけ絶縁破壊させると、強烈な発熱・発光を伴って発火・燃焼!樹脂製のアンテナ端子版に燃え移る。アンテナ端子が接地状態だと、ホットシャシ故にAC100Vからエネルギーが供給され続ける:原因と断定。
絶縁破壊のトリガーは、コンデンサ自体の問題以外に誘雷等の可能性もある。
同様の実験を、円板形のセラミックコンデンサに変更して行ったが燃えませんでした。コンデンサ変更で技術的な問題解決しました。

トリニトロンの大型化
 トリニトロンカラーテレビ KV-1810U(1970年 発表・発売)の投稿記事が出てきたので、思い出したことを投稿します。「トリイトロン受像機の設置調整とブラウン管の調整

 国立科学博物館:産業技術史資料データベースには「型式:KV-1810U、トリニトロンの画面サイズの大型化。トリニトロンは大型化も可能なことを立証」との注釈付きで登録されています!
 「トリニトロンは大型化が難しい」との当時の懸念・風評を払拭し、大型トリニトロンカラーテレビ市場参入の1号機となりました。
KV-1810Uは、山田(文彌)さん(故人)と私が設計の「まとめ役」の命を受け、設計チーム・関連部門の全面的な協力を得て完成させました。
設計終了後、山田さんはソニー一宮工場(1970年5月開設)(KV-1810U製造)に赴任されました。私にとっては貴重な経験・思い出です。
 的を射た内容ではありませんが、電波科学(1971-1臨時増刊号)掲載のKV-1810Uの記事コピーを添付します。(229ページにKV-1810Uの写真あり)

安全規格担当A係長の予感に救われた思い出話です
 米国向けトリニトロンカラーテレビKV-1210Uは1969年8月発売開始。
ブラウン管から放射されるX線規格に関するUL試験・検査規格厳格化への対応
 ソニー 先行対応 : 松下電器カラーテレビ 米国で大改修!
 忠さん(私の綽名)、ULの動きが何か変だ、気持ち悪い、正式な試験・検査規格として告示される前、出来るだけ早く対応策をしておいた方が良い、とのアドバイスを貰いました。
テレビの回路部品等に異常(1failure→double failure)が生じてもX線規格を満足すること。
具体的には、保護回路(ダイオード、コンデンサ、抵抗、4Pラグ端子、等)材料費162円の追加。
彼のアドバイス通り、準備が出来次第 保護回路付きKV-1210Uを生産。
大分経って、A係長から「松下電器は、米国でカラーテレビの大規模な改修を実施、事業部長が更迭」との情報、新聞報道もされ話題になりました。
お互いに感謝の念を込めてAさんんと固い握手、懐かしい思い出です。

テレビ音声多重放送に係わる思い出話
 1978年9月28日、日本テレビが世界初の音声多重放送を始め、翌10月にはNHK、フジテレビ、TBSも追随し、1982年の郵政省令をもって正式放送となりました。
1.音声多重放送聴取時のクロストーク(漏話)に関する指摘を受けました
通産省から呼び出しがあり、上司の命により出向きました。
担当官(課長補級)との面談で、「ソニーのカラーテレビは、主音声を聞いている時、副音声のクロストーク(漏話)が、他社より多い」との報告を受けた。早急に改善すべし。迅速な対応が出来れば報告は不要」とのこと。
(お客様、ソニーサービス、営業からの指摘、クレームの報告はありませんでした)
 検討チームの検証、改善検討に立ち会いました。漏話の原因は、復調回路、音声増幅回路のプリント基板アースパターンレイアウト。暫定策として、アースパターン間を最短距離・ジャンパ線で接続して改善。恒久策はプリント基板の修正を実施。
認識の甘さを指摘してくれた通産省の話は、ありがたいアドバイスでした。
2.SONAMの鬼木さんから、「公募・コンペ方式で、音声多重方式を決定する。実績のある日本方式を応募して欲しい」とFCCから要請を受けた。日本側で対応して欲しい」と頼まれました。ソニーが対応するのは筋違い:NHK技術研究所(沼口氏)に電話で事情を説明し対応を依頼:快諾してくれました。
(日本方式の採用は成りませんでしたが、1984年にBTSC (Broadcast Television Systems Committee) が、MTS (Multi-channel Television Sound) と言われる AM-FM変調方式の音声多重放送の規格を制定)

他社との一寸した交流
その1.Philips
「役員との面談を済ませたPhlips社の経営幹部(2人)が、トリニトロンについて話を聞きたいとのこと、直ぐに来るように」と、役員室から電話が入り、大崎工場から御殿山本社に駆け付けました。
新開発商品トリニトロンカラーテレビが、短時間に・高い完成度で十分な数量を市場に供給できている謎を知りたい様でした。
「素材・部品も含め多くの開発課題をどのように克服したのか? 社内開発と素材・部品メーカ委託の分担は?(P社は開発要素の大きな物は原則社内開発、委託する時もP社がイニシアチブ)。プロジェクトの全体マネジメントは?・・・私が答えられる範囲で話をしました。
残念なことに、現在のPhilips社は「欧州を代表する総合電機メーカーのフィリップス」(1990年代)の面影はありません。

その2.Zenith
アメリカのZenith Electronicsは、ラジオやテレビ受信機やその他の家庭用電化製品の大手メーカーでした。
アメリカ出張時に、沖さんに同行してZenithのカラーテレビ工場を訪問しましたが、あまり記憶に残っていません。
その後、Zenithi社のエンジニアチームの訪問を受け、ソニー側もエンジニアスタッフが対応しました。事例として、大型カラーテレビのブラウン管に供給する高圧部品の開発設計PERT図 (Program Evaluation and Review Technique)で、日程短縮のアドバイスを求められました。2~3質問をしたところ、正当化する説明のみ。自分達を正当化・擁護するためにPERTを利用している! 残念ながら建設的な議論は出来ませんでした。
暫くしてZenithのカラーテレビはアメリカ市場から姿を消し、1995年にLGエレクトロニクスがZenithの支配的な株式を取得、1999年Zenithは完全子会社となりました。
その3.付足しの話。
トリニトロンカラーテレビの開発設計に取り組んでいた時期に、ソビエトから小型白黒テレビが職場に届きました。評価&アドバイスが欲しいとのこと。上司の命により、報告書を作成しました。意外に良くまとまっていました。

トリニトロンカラーテレビ関係のクレーム対応:個人的な思い出話ですが・・・
1.トリニトロンブラウン管の寿命が短い?
  非常に心配している某ソニー販社社長(ソニー商事)に説明をしたが了解して貰えないので、対応するようにとの上司の命を受け出向きました。
  社長以下、30名弱の社員が会議室で待ち構えていました。社長からクレームについて説明を受け、本社としての回答を要請されました。 
 参加者の心配事をより理解するため、全員にメモ用紙を配布し、「お客様に満足していただけるブラウン管の寿命(年数)」を記入してもらい、回収しました。社長も大変興味を持ち、「他人と相談せず、自分の思う年数を書け」と号令し、メモ用紙を回収してくれました。
 ホワイトボードの横軸に年数を書き、該当する「年数の記入されたメモ用紙」を縦方向に貼りました。2年~7年のきれいな「正規分布」になり、参加者全員が驚きの表情でした。多くの事象が正規分布をするので、いろいろな問題に対応する時の参考なることを説明。お客様の期待寿命、ブラウン管自体の寿命のバラツキ、テレビの累積使用時間等も同様の分布になることを説明。
トリニトロンブラウン管の技術・製造部門は、トリニトロンブラウン管自体の長寿命化とバラツキを小さくするため、昼夜を問わず努力していることを説明。
 上記の説明を参考にして、個々のクレームや問い合わせに対応していただく様にお願いしました。幸い、社長以下参加者全員、和やかな雰囲気で会議を終わりました。
2,「SONAMから「15VトリニトロンカラーTVの出火が原因で発生した家屋、家財の損害賠償に関する訴訟」問題で、裁判所から、「当該TVの設計担当者、責任者」の証人喚問の要請を受けた」との連絡がありました。設計担当としてOさん、責任者として私が指名され、出廷に備え、米国大使館で宣誓を済ませました・・・・が、呼び出される直前に、「和解が成立した」との連絡!
 アメリカでは、何か事故があると有名企業の製品を巻き添えにして訴訟するケースがある。今回の訴訟もソニーの有名税だったかもしれないよ、鬼木さんのコメント!
3.1985年4月 中国北京出張
 トリニトロンカラーテレビの品質問題で、中国政府から呼び出しを受けた。対応するように、との上司の命。外国部・中国担当スタッフと北京に出向きました。
ソニーのテレビの故障で、人民が迷惑し困り・怒っている。政府として放置できないのでソニーに適切な対応を要求する・・とのこと。具体的な不良事実・データの提示は無し。適切な対応について話し合い合意しました。(具体的内容は省略)
 日本の家電各社、自動車会社の多くが、中国での品質問題対応に苦慮していた時期でした。
4.カラーテレビ(ブラウン管式)の発煙・発火問題
 地方都市のスナック(飲み屋?)で火災があり、トリニトロンカラーTVも出火原因の可能性あると嫌疑を掛けられている、販売会社から連絡があり、急遽任命され現地調査に向かいました。5階建てビルの3階の火災現場を見せてもらいましたが、カウンターから奥が最も酷く焼け、スナックとしては半焼状態でした。幸い怪我人は出なかったようです。素人目では火元推定が出来る状況では無く、現場状況を把握しただけで帰社しました。幸いに、その後、消防からの連絡は有りませんでした。
 当時はテレビの発煙・発火事例は珍しくありませんでした。テレビ自体の問題だけでなく、ユーザーが使う環境、取り扱いが原因のこともありました。
ある会合で東京都消防庁の方から、ソニーはマシな方だ、某社のテレビは管内で年間40件位消防が関与しているよ、との話を聞きました。

8mmビデオに関する思い出話
 1988年5月~1990年10月、民生用8mmカムコーダ以外の8mmビデオ関連ビジネスを担当しました。
 1989年8月19~20日:SONAM Government System Div. Technology Expoに参加しました。帰国後暫くして、US GovernmentとSONAM/SONYの関係が破断しかねない事態が発生しました。
 事前連絡なく、US Navy担当官2名の訪問を受けました。8mmビデオの話題ではなく、「SONAM/SONYとの契約(~2002年:ベータムービーの供給を保証)を守ること、守れない場合は、全てのソニー製品購入契約を破棄し、ソニー製品の購入を停止する」と通告されました。具体的には「ベータムービー200台」(最後の発注)の購入要求でした。彼らの切羽詰まった態度から「私が責任をもって対処し早急に状況を報告する」ことで何とか納得してもらうのが精一杯でした。既にベータムービーは生産終了(ディスコン宣言)していました。
私は、トリニトロンカラーテレビの基幹工場ソニー一宮を訪問する機会が多く、ベータムビーを生産している現場を見た事を覚えていました。
 直ぐにソニー一宮の山田社長に電話を入れ、状況を説明し、全面的な協力を要請しました。「ディスコンモデルだが、ベータムビーの部資材在庫、製造に必要な治工具・関係書類等廃棄していない」との連絡を受けた時は、奇跡的な幸運に感謝しました。その後、ソニー一宮から200台出荷するまで逐一連絡がありました。関係者の協力・努力には感謝しきれません。

 私はベータムービーとは全く無関係でした。何故彼らが私を訪ねてきたのか謎のままです。
1991年1月~2月

湾岸戦争のNHKニュース報道で、米軍の戦艦からミサイル発射の映像は上記のベータムービーで撮影・・・心を過りました。


わが心の盛田(昭夫)さん(5月5日)
 身辺整理中に、「Speaking Out Akio Morita」をを見つけ、盛田(昭夫)さんの思い出がよみがえってきました。(カセットテープは見つからず)

盛田さんの人柄が滲み出た、忘れられない出来事です。

① 白黒トランジスタテレビ設計担当時(1964年頃)
新人と二人だけで深夜残業中、盛田さんが職場に来られました。「1台しかない測定器(静電高圧計)を、長時間占有して実験する必要があるので・・・」と申し上げました。
翌日、静電高圧計2台が職場に届きました!
設計していた12型白黒トランジスタテレビ(TV-120)は、大ヒットモデルとなりました。

② 英国のマーガレット王女来日時(1969年9月)
庶務担当から呼ばれ電話に出ると「盛田だがね、話をつけたので、直ぐにイギリス大使館に行き、マーガレット王女の寝室(滞在中の居室)にトリニトロンカラーテレビを設置する様に」とのこと。
ソニーサービスのスタッフに同行を依頼、KV-1310(1968年10月発売)を携え駆けつけました。大使館内では着物姿の日本人スタッフが忙しそうに動き回っていました。
居室は皇居側に面した2階、テレビアンテナケーブルの引き込みなし!「アンテナの仮設や建物に手を加えるこ&景観に影響あることは不可!と釘をさされました。
急遽ソニービルに電話を入れ、展示してある卓上型ループアンテナ(ソニーオリジナル)を取り寄せました。ゴーストもなく良好な画質で安心しました。
☆1974年6月、ブリジエンド工場稼働開始:トリニトロンカラーテレビの現地生産がスタートしました。

③ 井深さん宅のテレビ(1973年頃?)
電話に出ると「盛田だがね、井深さんは、お宅で古いトリニトロンを観て居られる様なので、最新型のモデルと交換する様に。井深さんはご自分からおっしゃらない人だから・・・」。
ソニーサービススタッフの協力を得て、最新型の大型トリニトロンモデル(20型?)を井深さんのお宅に設置しました。ご本人は不在でしたが、奥様が茶菓で労って下さいました。

④ ソニー幸田勤務時代(1990~1992年)の出来事。
 8mmビデオ自動化工場として注目されていたソニー幸田に、フランス政府要人(大臣3人)の来訪が決まり、全社あげて準備を整えました。着任間もない私でしたが、芝田社長命により、工場見学全般のとりまとめ役を担当しました。
 盛田さんは当日の朝、お一人でヘリコプターで来られました。先導役として出迎えた私に、「昼に食べるから温めてくれ」と吉野家の牛丼弁当を渡されました。「好天に恵まれ、景色を楽しまれたのでは」と申し上げたところ「書類・資料に目を通していたよ」。最初に、今日案内する見学コースを回りたいとのことで、ご案内しました。
 当日の最初の訪問先「トヨタ田原工場」から盛田さんに、30分遅れとの連絡が入り、「見学時間を30分短縮する様に」との指示があり対応策を採りました。
見学後のミーティングでは、議長・進行役、ソニーとしての説明・応答は盛田さん自身が対応されました。
 次の訪問先に向かうフランス政府要人一行を見送り、盛田さんも安堵された様で、「本社に帰る人いないか?1人ヘリに乗れるから・・・」と、待機していた本社スタッフが同乗して帰途につかれました


「ソニーと本田提携」の報に接し、思い出したこと(3月15日)
 井深さんと本田さん親交の1エピソードです。
「本田さんから、ご自身がチューンアップした(ホンダ 1300 99S/1969年発売)をプレゼントされた。チューンアップしたトリニトロンカラーテレビを贈りたいのでご自宅に届ける様に」と、井深さんからの指示があり、KV-1310用意し届け・設置しました。ご自身は不在でしたが娘さんに立ち会って頂きました。
 50年程前ですが、ソニー中央研究所を訪ねた時、井深さんがバッテリー(馬場バッテリー?)駆動の「自動車シャシ」に乗って居られる姿の見かけたことがあります。
 不思議な「えにし」を感じます。

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